6月24日(日)
6月・7月は梅仕事の季節。
梅仕事とは、梅酒や梅干などを仕込む作業です。
その響きからは丹念な手作業のニュアンスが感じられます。
確かにその通り、梅干作りは大変手間がかかります。
筑波の鴨亭で、主人の母に教わりながら妹と一緒に30キロも40キロも仕込んだ時のことは、今でも(と言うより今だからこそよけいに)懐かしく思い出されます。
それに比べると、先行して仕込みを行う梅酒はずっと楽に作れます。
今年は梅ブランデーと黒糖梅ブランデーを仕込みました。黒糖は、息子が修学旅行で買ってきた沖縄産です。
早くて三ヶ月で解禁ですが、お店ではきっと11月ぐらいからご提供できると思います。
お楽しみに!!
梅からの連想というわけでもありませんが、このごろ毎朝ウグイスの鳴き声が聞こえると、守谷在住のスタッフY.Y.さんが一週間ほど前に話していました。
早春から鳴き始めるウグイスですが、最初のころはへたくそで、なかなか上手く鳴けないでいます。
今頃のウグイスはもうすっかり慣れたもの。澄んだ声で「ほーほけきょ!」と繰り返しているのでしょう。
こんなに美しい声の持ち主でありながら姿は地味なそうです。私も声がするとよく捜しましたが、一度も姿を見たことがありません。なんとも心をそそる小鳥です。
2011年12月11日日曜日
2011年12月7日水曜日
PEACEFUL EASY FEELING
12月7日(水)
I like the way your sparkling earlings lay
Against your skin so brown ・・・
(君の褐色の肌にきらめくイアリングが映えてとってもすてきだ・・・)
で始まる、これぞイーグルス節!という初期の名曲です。
彼らがまだ素朴なカントリーテイストを残していたころの、なんともおおらかでのんびりした感じのこの曲を、今日は朝の車の中で二回繰り返して聴いてしまいました。
最初からそんな気分だったわけではありません。
むしろ、ピースフルでイージーなフィーリングなんて近頃まったく無縁と言っていいほどでした。
だからこそと言っていいのでしょうが、この曲を聴いているうちに、心のこわばりのようなものがほぐれてきて、スーッと気持ちが軽くなったのです。
そこでもう一回聴き直し。
今まではべつに、特にこの曲が好きだったわけではありませんでした。
30年以上聴いていて、初めてこの曲の良さに気付いたのでした。
こんなこともあるのですね。
I got a peaceful easy feeling
'Cause I'm already standing on the ground
というこの曲の結びの部分のとおり、地にしっかり足を付けることができれば、きっとハッピーに生きていけるのでしょうね。早くその境地に達したいものです。
I like the way your sparkling earlings lay
Against your skin so brown ・・・
(君の褐色の肌にきらめくイアリングが映えてとってもすてきだ・・・)
で始まる、これぞイーグルス節!という初期の名曲です。
彼らがまだ素朴なカントリーテイストを残していたころの、なんともおおらかでのんびりした感じのこの曲を、今日は朝の車の中で二回繰り返して聴いてしまいました。
最初からそんな気分だったわけではありません。
むしろ、ピースフルでイージーなフィーリングなんて近頃まったく無縁と言っていいほどでした。
だからこそと言っていいのでしょうが、この曲を聴いているうちに、心のこわばりのようなものがほぐれてきて、スーッと気持ちが軽くなったのです。
そこでもう一回聴き直し。
今まではべつに、特にこの曲が好きだったわけではありませんでした。
30年以上聴いていて、初めてこの曲の良さに気付いたのでした。
こんなこともあるのですね。
I got a peaceful easy feeling
'Cause I'm already standing on the ground
というこの曲の結びの部分のとおり、地にしっかり足を付けることができれば、きっとハッピーに生きていけるのでしょうね。早くその境地に達したいものです。
2011年12月6日火曜日
ダイコン70本
12月6日(火)
お友達からダイコンをいっぺんに70本いただきました。
ご実家が農家で、自家用に作ったとのことですが、どう見てもお店に並べられているものと比べて遜色はありません。すらっとまっすぐに伸びたきれいなダイコン、葉っぱも青々と元気です。
でも、売り物にはならないというのです。
こんなに立派に育てたのに売れないって、どういうこと?
なんだかお気の毒です。
とにかくこれを全部下さるというのです。
「50本は干してたくあんにして、残りはお店で使って」と言うのですが、あまりの量にしばらくは途方にくれていました。
でも、泥つきのダイコンを山のように積み上げておいたって埒があきません。
こうなったら立派なたくあんに仕立て上げて、お客様にお出ししたり、自分たちで食べたりしようと一大決心して、洗いにかかりました。
幸いうちは業務用の流しなので屋内で洗えましたが、普通の農家では寒い屋外で冷たい水で洗うのでしょう。お百姓さんの仕事って、一つ一つ本当に大変なのだなあと思いながら作業していました。
ようやく洗い終えたダイコンを今日はひとまず室内で干して、太陽の光を待つことにしました。
明日はどうやらお天気がよいらしいので、庭に並べるか吊るすかして干すことができると思います。
否応なくたくあん50本漬けることになってしまいました。
でもこんなことでもなければ、面倒くさがりの私は絶対たくあんなんて作らなかったことでしょう。
ありがたいことだと思います。
お友達からダイコンをいっぺんに70本いただきました。
ご実家が農家で、自家用に作ったとのことですが、どう見てもお店に並べられているものと比べて遜色はありません。すらっとまっすぐに伸びたきれいなダイコン、葉っぱも青々と元気です。
でも、売り物にはならないというのです。
こんなに立派に育てたのに売れないって、どういうこと?
なんだかお気の毒です。
とにかくこれを全部下さるというのです。
「50本は干してたくあんにして、残りはお店で使って」と言うのですが、あまりの量にしばらくは途方にくれていました。
でも、泥つきのダイコンを山のように積み上げておいたって埒があきません。
こうなったら立派なたくあんに仕立て上げて、お客様にお出ししたり、自分たちで食べたりしようと一大決心して、洗いにかかりました。
幸いうちは業務用の流しなので屋内で洗えましたが、普通の農家では寒い屋外で冷たい水で洗うのでしょう。お百姓さんの仕事って、一つ一つ本当に大変なのだなあと思いながら作業していました。
ようやく洗い終えたダイコンを今日はひとまず室内で干して、太陽の光を待つことにしました。
明日はどうやらお天気がよいらしいので、庭に並べるか吊るすかして干すことができると思います。
否応なくたくあん50本漬けることになってしまいました。
でもこんなことでもなければ、面倒くさがりの私は絶対たくあんなんて作らなかったことでしょう。
ありがたいことだと思います。
2011年12月2日金曜日
初雪
12月2日(金)
今朝の筑波山です。右側の山の上のほうが白くなっています。
夜のうちに初雪が降ったのです。
暖かい日の多かった11月が終わったとたんの冷え込みです。
すべてが冷え冷えとしています。
落ち葉の落ちる音、風に飛ばされる音が一層寒々しさを際立たせます。
本格的な冬の日、私たちの心身を暖めてくれるもののひとつに、鍋料理、煮込み料理があります。
湯豆腐、寄せ鍋、おでん、ポトフ、シチュー・・・
晩御飯担当の主婦にはお助けメニューであると同時に、これらのお料理の温かさは何よりのご馳走ですよね。寒い中外から帰ってくる人たちのことを思いながら、夕方前に大きなお鍋でドン!と作っておけば、後はどんなに忙しくなっても大丈夫という安心感があります。
この冬もこれから、定番ながら「ほっとするホット料理」で、家族を暖めましょう。
今朝の筑波山です。右側の山の上のほうが白くなっています。
夜のうちに初雪が降ったのです。
暖かい日の多かった11月が終わったとたんの冷え込みです。
すべてが冷え冷えとしています。
落ち葉の落ちる音、風に飛ばされる音が一層寒々しさを際立たせます。
本格的な冬の日、私たちの心身を暖めてくれるもののひとつに、鍋料理、煮込み料理があります。
湯豆腐、寄せ鍋、おでん、ポトフ、シチュー・・・
晩御飯担当の主婦にはお助けメニューであると同時に、これらのお料理の温かさは何よりのご馳走ですよね。寒い中外から帰ってくる人たちのことを思いながら、夕方前に大きなお鍋でドン!と作っておけば、後はどんなに忙しくなっても大丈夫という安心感があります。
この冬もこれから、定番ながら「ほっとするホット料理」で、家族を暖めましょう。
2011年11月24日木曜日
十一月賛歌
11月24日(木)
庭のもみじが今見頃を迎えています。
これは鴨亭玄関の正面、駐車場の真中にあるもみじです。
玄関から十メートルほど内側の廊下に立つと、フローリングの床に映り込んだ「逆さもみじ」を見ることができます。
夕方にはライトアップをしていますが、なかなかきれいです。
さて、十一月となると,にわかに日が短くなり、木枯らしも吹き始め、初霜の便りもあちこちから聞こえてきます。近づいてくる冬の足音にちょっと憂鬱になったりもしますが、私にとってはそれだけでもないのです。
息子の誕生月ということはとりあえず置いておいても、まずいちばんは、今年の六月に作った梅酒と梅ジュースが解禁になるということ。(琥珀色)
それから、七五三で子どもの盛装姿が見られることも楽しみの一つです。(錦)
ちなみに鴨などのジビエも、冬を前にたっぷりと脂肪をつけておいしくなります。(?)
そして紅葉。(赤・黄色)
自然から「冬」といういちばん厳しい季節の洗礼を受ける前の、つかの間の様々な彩りが、十一月にはありますよね。
話は変わりますが、「永遠のゼロ」ですっかりファンになってしまった百田尚樹さんの「輝く夜」という短編集を買いました。
まだ途中ですが、日本版のO・ヘンリーという感じがしました。
百田さんは、「社会や人間のおぞましさは現実に溢れかえっているからわざわざフィクションで扱う理由がない」とおっしゃっています。
百田さんの信念、「小説は読者に生きる勇気・生きる喜びを与えるものでなければならない」という姿勢を私は心から支持します。
私たちが作っていくお店も、かっこよく言えば、百田さんの作品みたいなお店を理想としています。この理想に、少しでも近づけるように、努力していかなければと思っています。
庭のもみじが今見頃を迎えています。
これは鴨亭玄関の正面、駐車場の真中にあるもみじです。
玄関から十メートルほど内側の廊下に立つと、フローリングの床に映り込んだ「逆さもみじ」を見ることができます。
夕方にはライトアップをしていますが、なかなかきれいです。
さて、十一月となると,にわかに日が短くなり、木枯らしも吹き始め、初霜の便りもあちこちから聞こえてきます。近づいてくる冬の足音にちょっと憂鬱になったりもしますが、私にとってはそれだけでもないのです。
息子の誕生月ということはとりあえず置いておいても、まずいちばんは、今年の六月に作った梅酒と梅ジュースが解禁になるということ。(琥珀色)
それから、七五三で子どもの盛装姿が見られることも楽しみの一つです。(錦)
ちなみに鴨などのジビエも、冬を前にたっぷりと脂肪をつけておいしくなります。(?)
そして紅葉。(赤・黄色)
自然から「冬」といういちばん厳しい季節の洗礼を受ける前の、つかの間の様々な彩りが、十一月にはありますよね。
話は変わりますが、「永遠のゼロ」ですっかりファンになってしまった百田尚樹さんの「輝く夜」という短編集を買いました。
まだ途中ですが、日本版のO・ヘンリーという感じがしました。
百田さんは、「社会や人間のおぞましさは現実に溢れかえっているからわざわざフィクションで扱う理由がない」とおっしゃっています。
百田さんの信念、「小説は読者に生きる勇気・生きる喜びを与えるものでなければならない」という姿勢を私は心から支持します。
私たちが作っていくお店も、かっこよく言えば、百田さんの作品みたいなお店を理想としています。この理想に、少しでも近づけるように、努力していかなければと思っています。
2011年11月12日土曜日
秋の庭にて
11月12日(土)
まずは、朝日が高く昇ってきたころの雲の様子です。画面下のほうのすじ雲がきれいだったのですが、あまり鮮明ではありませんね。
二枚目の写真は、同じ時刻の、雲に取り巻かれた筑波山です。
さて、庭には椿が咲き始めています。
季節がさらに進んだなという感じがします。
椿は寒い時期の日本の花の代表格ですが、この花が咲いている風情を見て、私がいつも思い出すのは、「不思議の国のアリス」で出てくるバラの花です。
トランプの兵隊たちが、白いバラの花を、女王様の命令で用意するはずだった紅バラに似せるため、大急ぎでペンキで赤に染め替えているシーンのあのバラの木によく似ているのです。
赤椿が今日は一輪しか咲いていなかったのと、背景に写りこんでいる桜の木などで、あまり感じが出ていませんか?
菊の花は、まさに満開の時を迎えています。
庭に咲いている限り、その色とりどりの花々はとても美しいのですが、いざ花びんに挿そうと思うとそれほどた易くはいきません。
花屋さんで売られている菊は、さすがプロの商品だけあってみんな茎がまっすぐなのですが、庭の花は違うのです。
紐で縛ったり、添え木を当てたりといった義母の必死の努力にも関わらず、ひねこび放題。
さらに、どのようにひん曲がった茎でも花は真上を向いて咲きますから、斜めだった茎に咲いた花は、立ててあしらおうとすると俯いてしまいます。
花自体はとてもきれいでも、どうやってみても使いこなせない花がたくさんあります。
むしろ、活けたとき花びんと調和して映える花を探すのが難しいぐらいです。
このような時、いつも
「これって人間と同じだなあ。」
と思います。
素直でまっすぐに育った人間なら、どんな場所でもすんなりと周りと調和してやっていけますが、くせのある人間は、配置や使い道が難しい。
中にはどうにか居場所を見つけてそれなりにやっていける人間もいるでしょうが、どうにも溶け込めなくて、その結果あちこちを転々とするような生き方をせざるを得ないような人もいると思います。
少し前ほどには「個性の尊重」ということは言われなくなりましたが、当たり前といえば当たり前です。「個性の確立」より前にまずすべきは、素直な心の育成でしょう。まっすぐに伸びた茎の先にこそ、個性豊かな美しい花が咲くのだと思います。
まずは、朝日が高く昇ってきたころの雲の様子です。画面下のほうのすじ雲がきれいだったのですが、あまり鮮明ではありませんね。
二枚目の写真は、同じ時刻の、雲に取り巻かれた筑波山です。
さて、庭には椿が咲き始めています。
季節がさらに進んだなという感じがします。
椿は寒い時期の日本の花の代表格ですが、この花が咲いている風情を見て、私がいつも思い出すのは、「不思議の国のアリス」で出てくるバラの花です。
トランプの兵隊たちが、白いバラの花を、女王様の命令で用意するはずだった紅バラに似せるため、大急ぎでペンキで赤に染め替えているシーンのあのバラの木によく似ているのです。
赤椿が今日は一輪しか咲いていなかったのと、背景に写りこんでいる桜の木などで、あまり感じが出ていませんか?
菊の花は、まさに満開の時を迎えています。
庭に咲いている限り、その色とりどりの花々はとても美しいのですが、いざ花びんに挿そうと思うとそれほどた易くはいきません。
花屋さんで売られている菊は、さすがプロの商品だけあってみんな茎がまっすぐなのですが、庭の花は違うのです。
紐で縛ったり、添え木を当てたりといった義母の必死の努力にも関わらず、ひねこび放題。
さらに、どのようにひん曲がった茎でも花は真上を向いて咲きますから、斜めだった茎に咲いた花は、立ててあしらおうとすると俯いてしまいます。
花自体はとてもきれいでも、どうやってみても使いこなせない花がたくさんあります。
むしろ、活けたとき花びんと調和して映える花を探すのが難しいぐらいです。
このような時、いつも
「これって人間と同じだなあ。」
と思います。
素直でまっすぐに育った人間なら、どんな場所でもすんなりと周りと調和してやっていけますが、くせのある人間は、配置や使い道が難しい。
中にはどうにか居場所を見つけてそれなりにやっていける人間もいるでしょうが、どうにも溶け込めなくて、その結果あちこちを転々とするような生き方をせざるを得ないような人もいると思います。
少し前ほどには「個性の尊重」ということは言われなくなりましたが、当たり前といえば当たり前です。「個性の確立」より前にまずすべきは、素直な心の育成でしょう。まっすぐに伸びた茎の先にこそ、個性豊かな美しい花が咲くのだと思います。
2011年11月6日日曜日
カマキリにあやまった息子
11月6日(日)
時は移り、早くも11月。
この季節には珍しい暖かい日が続いています。
毎朝あちこちでカマキリが産卵しているのを見かけます。
数日前、ベランダ側の窓の網戸の隅に産卵しかけてやめたみたいなカマキリが一匹張り付いていました。
きっと産み始めたとき、何か邪魔が入ってやめてしまったのでしょう。
一部だけ産み付けられた卵はどうなるのでしょう。春になって何匹かは這い出してくるのでしょうか。
出産という、女の一世一代の大仕事を中断させられてしまったカマキリは、まだ次の機会をもてるのでしょうか?
同じ女として、このカマキリに深い同情を覚えました。
そのとき娘が私に教えてくれました。
そのカマキリに息子が謝っていたというのです。
何も知らずに窓を開けてしまった息子は、そこに産卵中の彼女を発見。
でも気づいたときにはもう遅く、危険を感じた彼女は卵を産むのをやめてしまったらしいのです。
後ほど私が見つけたときも、ほとんどその場所を動いてはいなかったものの、もう産卵の続きを始める意志はなかったようです。
そしてその日の夕方には、途中まで産み付けられた卵はそのままに、彼女は姿を消していました。
産卵という仕事を成し遂げられないまま一生を終わってしまうかもしれない彼女のことを思うと、胸がちくちく痛みはしたものの、彼女に謝っていたという息子の感性に、少しほっとした私でした。
時は移り、早くも11月。
この季節には珍しい暖かい日が続いています。
毎朝あちこちでカマキリが産卵しているのを見かけます。
数日前、ベランダ側の窓の網戸の隅に産卵しかけてやめたみたいなカマキリが一匹張り付いていました。
きっと産み始めたとき、何か邪魔が入ってやめてしまったのでしょう。
一部だけ産み付けられた卵はどうなるのでしょう。春になって何匹かは這い出してくるのでしょうか。
出産という、女の一世一代の大仕事を中断させられてしまったカマキリは、まだ次の機会をもてるのでしょうか?
同じ女として、このカマキリに深い同情を覚えました。
そのとき娘が私に教えてくれました。
そのカマキリに息子が謝っていたというのです。
何も知らずに窓を開けてしまった息子は、そこに産卵中の彼女を発見。
でも気づいたときにはもう遅く、危険を感じた彼女は卵を産むのをやめてしまったらしいのです。
後ほど私が見つけたときも、ほとんどその場所を動いてはいなかったものの、もう産卵の続きを始める意志はなかったようです。
そしてその日の夕方には、途中まで産み付けられた卵はそのままに、彼女は姿を消していました。
産卵という仕事を成し遂げられないまま一生を終わってしまうかもしれない彼女のことを思うと、胸がちくちく痛みはしたものの、彼女に謝っていたという息子の感性に、少しほっとした私でした。
2011年10月21日金曜日
黄色系になった庭、ぎんなん
10月21日(金)
道路からうちに入ってくると、なだらかなスロープを上がっていくことになります。
そして突き当たりをかなり鋭角に曲がるとやっと店が見えます。
最初のスロープを上がりきったあたりに今菊が満開です。
それから見本の鴨小屋の近くにも、お部屋の窓から見えるところにも。
数年前にいただいた鉢植えを、義母が小分けにして庭中に植え替えたのです。それらがそろって育って増えた結果です。
なんとなく庭全体も黄色っぽく染まって見えます。
今日は曇りだったからよけいそうなのかもしれません。
そうして、庭の中心にある石の上には、義母が拾って、洗った銀杏(ぎんなん)が干してあります。
これは毎年のこの時期の、義母の仕事です。
封筒に入れて、レンジで加熱して、パンパンと殻をはじかせて食べるのもおいしいですが、とてもたくさんあるので、袋に入れてホールに置き、お客様にもお分けしています。
とても手間がかかるので、「手間代だけ」頂戴していますが、結構人気があります。
そう言えばこの時期のイチョウの葉も黄色、この辺の秋は、燃えるような赤ではなく、少し物寂しい黄色系の秋です。
道路からうちに入ってくると、なだらかなスロープを上がっていくことになります。
そして突き当たりをかなり鋭角に曲がるとやっと店が見えます。
最初のスロープを上がりきったあたりに今菊が満開です。
それから見本の鴨小屋の近くにも、お部屋の窓から見えるところにも。
数年前にいただいた鉢植えを、義母が小分けにして庭中に植え替えたのです。それらがそろって育って増えた結果です。
今日は曇りだったからよけいそうなのかもしれません。
そうして、庭の中心にある石の上には、義母が拾って、洗った銀杏(ぎんなん)が干してあります。
これは毎年のこの時期の、義母の仕事です。
封筒に入れて、レンジで加熱して、パンパンと殻をはじかせて食べるのもおいしいですが、とてもたくさんあるので、袋に入れてホールに置き、お客様にもお分けしています。
とても手間がかかるので、「手間代だけ」頂戴していますが、結構人気があります。
そう言えばこの時期のイチョウの葉も黄色、この辺の秋は、燃えるような赤ではなく、少し物寂しい黄色系の秋です。
2011年10月19日水曜日
父の畑納め
10月19日(水)
この間の三連休に、実家の父が畑を納めるためにやってきました。
頑強な体を誇っていた父でしたが、寄る年波には勝てず、ここでの畑仕事が年々きつくなってきていたようなのです。
けじめとして、長年耕してきた畑を更地に戻すためにきたのですが、五ヶ月ぶりということもあって、すでに荒地となっていたところを夫がざっと草刈機で刈ってあったので、実際それほどやることはなかったみたいです。
私がここに来てからまもなく父がここに畑を作ったのは、もちろん父の数少ない趣味のひとつでもあったのですが、それ以上にきっと、私のことが心配だったからだと思われます。
畑を口実に私の様子を見に来ていたというのが本音で、そのうちそれに孫見たさが加わって今まで続いてきたのでしょう。
でもその孫たちも成長して自分たちの世界を持ち、父が来てもいないことも多くなっていました。いつの間にか、心配されていた私のほうが父の道中や体を心配するようになってきて、ちょうどすべてのタイミングが合い、畑はその役割を終えたということです。
父も、畑も、お疲れ様でした。ひとつの時代が終わりましたね。
でも、ひとつの時代の終わりは、次の時代の始まりですね。
父にもまだ、もっと体に優しく脳みそには厳しい趣味を見つけて、健康でいてもらいたいと思います。一緒にがんばりましょう。
この間の三連休に、実家の父が畑を納めるためにやってきました。
頑強な体を誇っていた父でしたが、寄る年波には勝てず、ここでの畑仕事が年々きつくなってきていたようなのです。
けじめとして、長年耕してきた畑を更地に戻すためにきたのですが、五ヶ月ぶりということもあって、すでに荒地となっていたところを夫がざっと草刈機で刈ってあったので、実際それほどやることはなかったみたいです。
私がここに来てからまもなく父がここに畑を作ったのは、もちろん父の数少ない趣味のひとつでもあったのですが、それ以上にきっと、私のことが心配だったからだと思われます。
畑を口実に私の様子を見に来ていたというのが本音で、そのうちそれに孫見たさが加わって今まで続いてきたのでしょう。
でもその孫たちも成長して自分たちの世界を持ち、父が来てもいないことも多くなっていました。いつの間にか、心配されていた私のほうが父の道中や体を心配するようになってきて、ちょうどすべてのタイミングが合い、畑はその役割を終えたということです。
父も、畑も、お疲れ様でした。ひとつの時代が終わりましたね。
でも、ひとつの時代の終わりは、次の時代の始まりですね。
父にもまだ、もっと体に優しく脳みそには厳しい趣味を見つけて、健康でいてもらいたいと思います。一緒にがんばりましょう。
2011年10月14日金曜日
どこにでもクモの巣
10月14日(金)
今朝はあたり一面にもやがかかっており、明け方まで細かい雨が降っていたような気配でした。
それが、気温が上がるとともに少しずつ薄くなって、朝食の支度が整うころには庭の木々も姿を現し始めました。
そうしたらびっくり、あっちにもこっちにも、クモの巣がきらきらと光っているではありませんか!
普段は目立たないのに、朝露をすずなりにぶら下げているからいつもと違ってまるみえです。
水晶のネックレスのようできれいではありますが、クモにとっては防犯上(?)ちょっと危険ですね。
こんなのがもっともっとあちこちにあったのですが、とりあえずここまでにします。
うちの庭のクモたちに関しては、思いのままの家作りも多めに見てあげられるのですが、お店の庭ではそうもいきません。
ですから、今日は竹ほうきを振り回して、端からクモの巣払いです。
それでも、ジャンプしても届かないところにもいっぱい!
(もっとも、昔のつもりで跳んでても、足はほとんど地面にくっついたまんまという情けないジャンプではありましたが。)
柄のいちばん先を持って上向きに竹ほうきを振り回すこの作業は、結構よい運動になりました。
人が見たら、「意味不明」ではあったでしょうけれど・・・
いつもより意識が上に行ったせいで、いろいろな実にもあらためて目を留め、写真に撮ってあげることになりました。
ピラカンサスです。
ネットでは、「鳥が食べに集まってきます」という説明が付いているものもありましたが、千両や万両などの実が食べられてしまっていてもいつも一番最後まで残っており、察するにあまり美味ではないようです。いよいよ食べるものが何も無くなってしまうと、仕方なく食べているような印象を受けています。
こちらはどうやら烏瓜のようです。
木々に蔓を絡ませて、あちこちでぶらぶらしています。
木の葉が落ちて、スカスカになった枝に絡まっているから、まるでその木の実のように見えます。どことなくユーモラスな目立ちたがり屋さんです。
今朝はあたり一面にもやがかかっており、明け方まで細かい雨が降っていたような気配でした。
それが、気温が上がるとともに少しずつ薄くなって、朝食の支度が整うころには庭の木々も姿を現し始めました。
そうしたらびっくり、あっちにもこっちにも、クモの巣がきらきらと光っているではありませんか!
普段は目立たないのに、朝露をすずなりにぶら下げているからいつもと違ってまるみえです。
水晶のネックレスのようできれいではありますが、クモにとっては防犯上(?)ちょっと危険ですね。
こんなのがもっともっとあちこちにあったのですが、とりあえずここまでにします。
うちの庭のクモたちに関しては、思いのままの家作りも多めに見てあげられるのですが、お店の庭ではそうもいきません。
ですから、今日は竹ほうきを振り回して、端からクモの巣払いです。
それでも、ジャンプしても届かないところにもいっぱい!
(もっとも、昔のつもりで跳んでても、足はほとんど地面にくっついたまんまという情けないジャンプではありましたが。)
柄のいちばん先を持って上向きに竹ほうきを振り回すこの作業は、結構よい運動になりました。
人が見たら、「意味不明」ではあったでしょうけれど・・・
いつもより意識が上に行ったせいで、いろいろな実にもあらためて目を留め、写真に撮ってあげることになりました。
ピラカンサスです。
ネットでは、「鳥が食べに集まってきます」という説明が付いているものもありましたが、千両や万両などの実が食べられてしまっていてもいつも一番最後まで残っており、察するにあまり美味ではないようです。いよいよ食べるものが何も無くなってしまうと、仕方なく食べているような印象を受けています。
こちらはどうやら烏瓜のようです。
木々に蔓を絡ませて、あちこちでぶらぶらしています。
木の葉が落ちて、スカスカになった枝に絡まっているから、まるでその木の実のように見えます。どことなくユーモラスな目立ちたがり屋さんです。
2011年10月11日火曜日
どこにでもカマキリ
10月11日(火)
お天気にも恵まれて、すてきな季節の三連休が終わりました。
毎晩月もこうこうと輝き、今晩はほぼ満月、九日の十三夜の月は、薄雲にくるまれて少し潤んでいるように見えました。
この日(九日)は、いつも行く産直のお店で売り出しをやっていて、ススキをただで大量に分けてもらうことができました。ふんだんにススキをあしらった花びんは、東京からのお客様にとても羨ましがられました(東京ではなかなか手に入らないでしょうから)。
菊が咲き始め、いろいろな実も赤く色づき、花の悩みともしばらく別れていられそうです。
さて、このごろ、いろいろなところに茶色に枯れたカマキリが貼り付いていて驚かされます。
窓ガラスの外側とか、家の外壁とか、縁側とか、至るところです。
昨晩はお風呂場にいたので、一緒に入浴してしまいました(?)。
さっきは犬のえさ入れの中です(コロに食べられちゃうぞ~)。
気温が下がってきたせいか、動きが鈍く、突いてもあまり反応しません。しつこくかまうと、ようやく面倒くさそうにのそのそ移動を始めます。もっと寒くなると、まったく動かなくなり、そのまま死んでいることもよくあります。今貼り付いているカマキリは、そうやって静かに余生を過ごしているというわけなんですね。
でもその前に、木の枝にちゃんと卵を産み付けているんですね。春になると、ホチキスの針みたいな赤ちゃんが、その卵からぞろぞろ出てくるんです。
こちらに来てからそんな光景を何度か見ることができました。
お天気にも恵まれて、すてきな季節の三連休が終わりました。
毎晩月もこうこうと輝き、今晩はほぼ満月、九日の十三夜の月は、薄雲にくるまれて少し潤んでいるように見えました。
この日(九日)は、いつも行く産直のお店で売り出しをやっていて、ススキをただで大量に分けてもらうことができました。ふんだんにススキをあしらった花びんは、東京からのお客様にとても羨ましがられました(東京ではなかなか手に入らないでしょうから)。
菊が咲き始め、いろいろな実も赤く色づき、花の悩みともしばらく別れていられそうです。
さて、このごろ、いろいろなところに茶色に枯れたカマキリが貼り付いていて驚かされます。
窓ガラスの外側とか、家の外壁とか、縁側とか、至るところです。
昨晩はお風呂場にいたので、一緒に入浴してしまいました(?)。
さっきは犬のえさ入れの中です(コロに食べられちゃうぞ~)。
気温が下がってきたせいか、動きが鈍く、突いてもあまり反応しません。しつこくかまうと、ようやく面倒くさそうにのそのそ移動を始めます。もっと寒くなると、まったく動かなくなり、そのまま死んでいることもよくあります。今貼り付いているカマキリは、そうやって静かに余生を過ごしているというわけなんですね。
でもその前に、木の枝にちゃんと卵を産み付けているんですね。春になると、ホチキスの針みたいな赤ちゃんが、その卵からぞろぞろ出てくるんです。
こちらに来てからそんな光景を何度か見ることができました。
2011年10月7日金曜日
モクレンの実
10月7日(金)
モクレンに実が付くということを、私は去年初めて知りました。
赤い実なのですが、二つ三つがひとかたまりの不完全な茶色の皮みたいなのをまとっていて、なかなかユニークです。
写真では、よく判りませんかね~
こちらは、モクレンの木の上半身像。
今はまだ、こんなに緑がたくさん茂っていますが、冬にはまったく枝だけになり、寒々しい風貌に変わってしまいます。
その裸の枝にやがて固いつぼみが付き、春を待ち望む気持ちが一段と強くなります。
そして待ち望んでいた白い花が開き、やがて満開になり、その下で犬のコロがのんびりと日向ぼっこする、という一年のサイクルです。
モクレンに実が付くということを、私は去年初めて知りました。
赤い実なのですが、二つ三つがひとかたまりの不完全な茶色の皮みたいなのをまとっていて、なかなかユニークです。
写真では、よく判りませんかね~
こちらは、モクレンの木の上半身像。
今はまだ、こんなに緑がたくさん茂っていますが、冬にはまったく枝だけになり、寒々しい風貌に変わってしまいます。
その裸の枝にやがて固いつぼみが付き、春を待ち望む気持ちが一段と強くなります。
そして待ち望んでいた白い花が開き、やがて満開になり、その下で犬のコロがのんびりと日向ぼっこする、という一年のサイクルです。
2011年10月6日木曜日
らんぶる
10月5日(木)
昨日のお休みは、高校時代の友人と恩師に会ってきました。
友人とは一年ぶり、恩師とは十年ぶりぐらいの再会でしょうか。
先生の行きつけの店という、新宿の「らんぶる」という喫茶店でお話をしました。
このお店、昭和の時代からの名曲喫茶の名店で、私も名前だけは知っていましたが、入ったのは初めてでした(夫は昔、新宿でサラリーマンをしていたときに行ったことがあると言っていました)。
一階はどうってことない「普通の」喫茶店という感じでした。
「普通の」と言っても、喫茶店全盛の時代を知っている私にとっての「普通」であって、今の若い人なら十分レトロ感を味わうことができるかもしれません。
先生が、
「地下に行こう。地下は広いんだよ。」
とおっしゃるので入ってすぐ左にあった階段を降りていきました。そこは、さらに懐かしい雰囲気の漂う空間でした。
地下が二階建てになっていて、赤い椅子とシャンデリアとクラシック音楽で、お客さんを外界から一気に切り離し、緊張から解いていってくれるような感じです。
そこで私たちは三十余年の年月を徐々に解凍させ、遡ったり戻ったりと、時間を自由に行き来しました。それぞれの記憶を語っているうちに、忘れていたこともたくさん思い出し、封印していた当時の(主に思春期にありがちな微妙な)心情を披露し合い、今ではそんな、揺れ動いていた自分たちを、客観的に暖かいまなざしで観ることができるようになっている自分たちを発見しました。
「らんぶる」とは「琥珀(こはく)」という意味だそうです。琥珀は、植物の樹脂などが地中で長い時間かかって化石化したもの。
私たちの高校時代も、長い時を経て、なめらかでつややかな人生の装飾品になっていたようです。
心の引き出しの中に大事にしまっておきましょう。
ときどきとりだして見ることができるように、鍵はかけないままで。
昨日のお休みは、高校時代の友人と恩師に会ってきました。
友人とは一年ぶり、恩師とは十年ぶりぐらいの再会でしょうか。
先生の行きつけの店という、新宿の「らんぶる」という喫茶店でお話をしました。
このお店、昭和の時代からの名曲喫茶の名店で、私も名前だけは知っていましたが、入ったのは初めてでした(夫は昔、新宿でサラリーマンをしていたときに行ったことがあると言っていました)。
一階はどうってことない「普通の」喫茶店という感じでした。
「普通の」と言っても、喫茶店全盛の時代を知っている私にとっての「普通」であって、今の若い人なら十分レトロ感を味わうことができるかもしれません。
先生が、
「地下に行こう。地下は広いんだよ。」
とおっしゃるので入ってすぐ左にあった階段を降りていきました。そこは、さらに懐かしい雰囲気の漂う空間でした。
地下が二階建てになっていて、赤い椅子とシャンデリアとクラシック音楽で、お客さんを外界から一気に切り離し、緊張から解いていってくれるような感じです。
そこで私たちは三十余年の年月を徐々に解凍させ、遡ったり戻ったりと、時間を自由に行き来しました。それぞれの記憶を語っているうちに、忘れていたこともたくさん思い出し、封印していた当時の(主に思春期にありがちな微妙な)心情を披露し合い、今ではそんな、揺れ動いていた自分たちを、客観的に暖かいまなざしで観ることができるようになっている自分たちを発見しました。
「らんぶる」とは「琥珀(こはく)」という意味だそうです。琥珀は、植物の樹脂などが地中で長い時間かかって化石化したもの。
私たちの高校時代も、長い時を経て、なめらかでつややかな人生の装飾品になっていたようです。
心の引き出しの中に大事にしまっておきましょう。
ときどきとりだして見ることができるように、鍵はかけないままで。
2011年10月4日火曜日
名残ひまわりとアオジソとミズヒキ
10月4日(火)
7月11日のブログで怖いアジサイの話をご紹介しましたが、今回も似たような話です。
そしてまた、前回はシソご飯の話題と組ませましたが、今回も偶然アオジソと組んでいます。
玄関に飾った花入れに、いつまでもしおれないひまわりが一輪だけまだ残っているのです。
小さい小さい花ですが。
前回の台風でうちのひまわりは全滅してしまったので、飾っていたのも次々に枯れてほかには残っていません。ここに活けてから、もう何日経つでしょう?
「お化け」ひまわりと呼ぶのはかわいそう過ぎるので、「名残」ひまわりと名付けました。
さて、ひまわりを取り囲むように活けてあるのは何でしょう?
実はこれはアオジソなのです。
この季節、うちの庭の菊はまだ固いつぼみですし、飾る花には本当に苦労しています。
シソも、葉っぱだけですとすぐ黒くなってしまうので、飾るのはどうかと思ったのですが、茎も一緒だと結構長持ちしてくれています。香りもほとんど気になりません。
ただ、白い花の寿命は短く、ポロポロポロポロ落ち続けますので、今度はお掃除が大変になってしまいました。
でも、掃除がどうだこうだと花を選んでいられる季節ではありません。
変な生け花ですが、見た目はそれほど変ではないと思っているのですが・・・?
そして、もう一種類、すーっ、すーっと伸びているのはミズヒキです。
庭の端っこの山の斜面の始まりのあたりに生えていました。
これが、使いようで結構映えるのです。
これだけだと目立たなくて見過ごしてしまいそうな花なのに、花瓶の中では名脇役です。
やはりお茶の世界で好まれるのも、でしゃばらないのにしっかりとした存在の意味があるからだと、分かるような気がします。
7月11日のブログで怖いアジサイの話をご紹介しましたが、今回も似たような話です。
そしてまた、前回はシソご飯の話題と組ませましたが、今回も偶然アオジソと組んでいます。
玄関に飾った花入れに、いつまでもしおれないひまわりが一輪だけまだ残っているのです。
小さい小さい花ですが。
前回の台風でうちのひまわりは全滅してしまったので、飾っていたのも次々に枯れてほかには残っていません。ここに活けてから、もう何日経つでしょう?
「お化け」ひまわりと呼ぶのはかわいそう過ぎるので、「名残」ひまわりと名付けました。
さて、ひまわりを取り囲むように活けてあるのは何でしょう?
実はこれはアオジソなのです。
この季節、うちの庭の菊はまだ固いつぼみですし、飾る花には本当に苦労しています。
シソも、葉っぱだけですとすぐ黒くなってしまうので、飾るのはどうかと思ったのですが、茎も一緒だと結構長持ちしてくれています。香りもほとんど気になりません。
ただ、白い花の寿命は短く、ポロポロポロポロ落ち続けますので、今度はお掃除が大変になってしまいました。
でも、掃除がどうだこうだと花を選んでいられる季節ではありません。
変な生け花ですが、見た目はそれほど変ではないと思っているのですが・・・?
そして、もう一種類、すーっ、すーっと伸びているのはミズヒキです。
庭の端っこの山の斜面の始まりのあたりに生えていました。
これが、使いようで結構映えるのです。
これだけだと目立たなくて見過ごしてしまいそうな花なのに、花瓶の中では名脇役です。
やはりお茶の世界で好まれるのも、でしゃばらないのにしっかりとした存在の意味があるからだと、分かるような気がします。
2011年10月2日日曜日
意志の問題
10月2日(日)
昨日、忘れないことと忘れることについて、安易なまとめ方でおしまいにしてしまいました。
でも今日になってもまだなにかひっかかっている感じがなくなりません。
朝、店を掃除しながらずっと考えていました(私がものを考えるのはこの掃除の時間が多いです。この時間に何か一所懸命考えるか、怒りなどの悪感情に支配されているかで、その日一日の満足度がかなり違ってきます)。
そこで意志の問題にたどり着きました。
私はよく物忘れをしますが、そんな「うっかり」の忘れるという行為(?)には、意志がないのです。
それに対して、昨日のテーマの「忘れる」「忘れない」には強い意志が働いています。
そのままにしておいたら忘却のかなたに消えていってしまいそうな、愛するものの面影を必死にたぐり寄せようとする強い意志、そのまま放置しておいたら、報復への誘惑に負けそうになってしまうところで踏みとどまる強い意志。
あるがままの自分をそのまま通すのではなく、そこに強い意志を働かせ、あえてより高いステージへ向かっての戦いを自分自身に挑ませるなんてことは、やはり成熟した大人の人間にしかできないことでしょう。
こうしてようやく、二つの文章を擦り合わせての、私なりの結論めいたものが出たような気がしました。
昨日、忘れないことと忘れることについて、安易なまとめ方でおしまいにしてしまいました。
でも今日になってもまだなにかひっかかっている感じがなくなりません。
朝、店を掃除しながらずっと考えていました(私がものを考えるのはこの掃除の時間が多いです。この時間に何か一所懸命考えるか、怒りなどの悪感情に支配されているかで、その日一日の満足度がかなり違ってきます)。
そこで意志の問題にたどり着きました。
私はよく物忘れをしますが、そんな「うっかり」の忘れるという行為(?)には、意志がないのです。
それに対して、昨日のテーマの「忘れる」「忘れない」には強い意志が働いています。
そのままにしておいたら忘却のかなたに消えていってしまいそうな、愛するものの面影を必死にたぐり寄せようとする強い意志、そのまま放置しておいたら、報復への誘惑に負けそうになってしまうところで踏みとどまる強い意志。
あるがままの自分をそのまま通すのではなく、そこに強い意志を働かせ、あえてより高いステージへ向かっての戦いを自分自身に挑ませるなんてことは、やはり成熟した大人の人間にしかできないことでしょう。
こうしてようやく、二つの文章を擦り合わせての、私なりの結論めいたものが出たような気がしました。
2011年10月1日土曜日
忘れないことと忘れること
10月1日(土)-2
「忘れる」という言葉が私の頭にひっかっかったのは、「忘れてはいけない」という趣旨の文章と「忘れなくてはいけない」という趣旨の文章とを偶然同じ日に読んだからです。
前者は朝日新聞の「南相馬日記」ー 消えた命 忘れはしない - (9月29日付け)。
毎日海辺に通い続け、津波でさらわれた父親と幼い長男を、探している男性の記事です。
南相馬市において、津波による死者と不明者は663人にも及びます。にもかかわらず、震災の直後に起こった原発事故にばかりに目が向けられ、津波の犠牲者が置き去りにされている現状を告発している記事です。
男性は愛する家族を「決して置き去りにはしない」と胸に刻み、今日も捜索を続けているそうです。
そして後者は新約聖書「コリントの信徒への手紙」にある「愛の定義」。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
という、有名な個所です。
この定義を曽野綾子さんが本の中で解説されていましたが、「恨みを抱かない。」という文の説明で、「抱く」という語のギリシャ語の原語は会計係が忘れないために記帳するという意味の動詞だそうです。つまり、キリスト教の愛の定義では、忘れないことがよいのではなく、忘れなければいけない場合があるというのです。
ですからこの場合の「忘れる」は、「許す」ことと同じで、キリスト教信仰の基本原則となっています。
しかし、いくら信仰の原則が「許し」であっても、クリスチャンがみな原則どおりに「許す」ことができているかというと、そうではないと曽野さんは続けます。そして、人間性に厚みをつけるためには、あるがままの自分とあるべき自分との二重性を子どものうちから理解させなくてはいけないとおっしゃっています。いい年をして、子どものように幼稚で薄っぺらい見方しかできない大人が認められるような社会は、世界の中にほとんどないからというわけです。
厳しいご指摘ですね。
両方の文章を読んで、、私たちが生きていくうえで、「忘れてはいけないこと」がある一方、「忘れなければいけないこと」もあるということにあらためて気を留めることになりました。
そして私たちはしばしば、忘れてはいけないことを忘れ、忘れなければいけないことを忘れず、そのために重荷を背負って生きているような気分になることに思い当たりました。
糧になることは忘れず、重荷になることは忘れて生きていけるように、これから先、注意深く心を使いながら生活していこうと思います。
「忘れる」という言葉が私の頭にひっかっかったのは、「忘れてはいけない」という趣旨の文章と「忘れなくてはいけない」という趣旨の文章とを偶然同じ日に読んだからです。
前者は朝日新聞の「南相馬日記」ー 消えた命 忘れはしない - (9月29日付け)。
毎日海辺に通い続け、津波でさらわれた父親と幼い長男を、探している男性の記事です。
南相馬市において、津波による死者と不明者は663人にも及びます。にもかかわらず、震災の直後に起こった原発事故にばかりに目が向けられ、津波の犠牲者が置き去りにされている現状を告発している記事です。
男性は愛する家族を「決して置き去りにはしない」と胸に刻み、今日も捜索を続けているそうです。
そして後者は新約聖書「コリントの信徒への手紙」にある「愛の定義」。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
という、有名な個所です。
この定義を曽野綾子さんが本の中で解説されていましたが、「恨みを抱かない。」という文の説明で、「抱く」という語のギリシャ語の原語は会計係が忘れないために記帳するという意味の動詞だそうです。つまり、キリスト教の愛の定義では、忘れないことがよいのではなく、忘れなければいけない場合があるというのです。
ですからこの場合の「忘れる」は、「許す」ことと同じで、キリスト教信仰の基本原則となっています。
しかし、いくら信仰の原則が「許し」であっても、クリスチャンがみな原則どおりに「許す」ことができているかというと、そうではないと曽野さんは続けます。そして、人間性に厚みをつけるためには、あるがままの自分とあるべき自分との二重性を子どものうちから理解させなくてはいけないとおっしゃっています。いい年をして、子どものように幼稚で薄っぺらい見方しかできない大人が認められるような社会は、世界の中にほとんどないからというわけです。
厳しいご指摘ですね。
両方の文章を読んで、、私たちが生きていくうえで、「忘れてはいけないこと」がある一方、「忘れなければいけないこと」もあるということにあらためて気を留めることになりました。
そして私たちはしばしば、忘れてはいけないことを忘れ、忘れなければいけないことを忘れず、そのために重荷を背負って生きているような気分になることに思い当たりました。
糧になることは忘れず、重荷になることは忘れて生きていけるように、これから先、注意深く心を使いながら生活していこうと思います。
Stay or Go (行くか、とどまるか)?
10月1日(土)
小学生のころ愛読していた少女文学全集の中に、「風の子キャディー」という物語(残念ながら作者は覚えていない)がありました。
舞台は西部開拓時代のアメリカ、主人公のキャディーはティーンになるかならないかの女の子。両親、姉と兄、弟と二人の妹という家族に、ボストン育ちの従姉が絡み、このあたりは「大草原の小さな家」にちょっと似ていると言えるかもしれません。
物語は、南北戦争、インディアンとの対立と和解などの時代背景の中で、子供たちが成長し、家族が絆を深めていく姿を描いたものでした。
当時日本ではまだ、それほど一般的になっていなかったヴァレンタイン・カードを、子供たちが贈りあうシーンなどもあり、それが兄の初恋のエピソードにもなっていて、とても楽しんで読んだ本です。
物語の一番の山場は終盤に訪れます。
東部ボストンの親戚が亡くなり、一家に、お屋敷を含めた莫大な財産を受け取る権利が発生したのです。ただし、それには条件がありました。ボストンに戻って、そこで生活することです。
キャディーのお父さんは家族投票をすることにします。
兄弟六人と両親が、それぞれに、「STAY」の4文字か「GO」の2文字を書いて投票するのです。いちばん小さい妹まで、この6つの文字を教えてもらって投票に参加しました。
結果は「GO」は姉一人だけ。その姉も、「私も本当は行きたくなんてなかったんだわ!」とすぐ撤回します。
物語は、リンカーン暗殺のニュースのショックから一家が立ち直り、それでも「西」(=新しい場所・時代)に向かって生きていく決意を新たにするところで終わります。
人生の大きな岐路にいつも立ちはだかる永遠の問い「Stay or Go?」。
重要なのはどちらが正しいのかではなく、決断を下すこと自体なのでしょう。
なぜならこの物語でも、そのほかの多くの場合でも、「STAY」という決断はすなわち新しい「GO」でもあるからです。
小学生のころ愛読していた少女文学全集の中に、「風の子キャディー」という物語(残念ながら作者は覚えていない)がありました。
舞台は西部開拓時代のアメリカ、主人公のキャディーはティーンになるかならないかの女の子。両親、姉と兄、弟と二人の妹という家族に、ボストン育ちの従姉が絡み、このあたりは「大草原の小さな家」にちょっと似ていると言えるかもしれません。
物語は、南北戦争、インディアンとの対立と和解などの時代背景の中で、子供たちが成長し、家族が絆を深めていく姿を描いたものでした。
当時日本ではまだ、それほど一般的になっていなかったヴァレンタイン・カードを、子供たちが贈りあうシーンなどもあり、それが兄の初恋のエピソードにもなっていて、とても楽しんで読んだ本です。
物語の一番の山場は終盤に訪れます。
東部ボストンの親戚が亡くなり、一家に、お屋敷を含めた莫大な財産を受け取る権利が発生したのです。ただし、それには条件がありました。ボストンに戻って、そこで生活することです。
キャディーのお父さんは家族投票をすることにします。
兄弟六人と両親が、それぞれに、「STAY」の4文字か「GO」の2文字を書いて投票するのです。いちばん小さい妹まで、この6つの文字を教えてもらって投票に参加しました。
結果は「GO」は姉一人だけ。その姉も、「私も本当は行きたくなんてなかったんだわ!」とすぐ撤回します。
物語は、リンカーン暗殺のニュースのショックから一家が立ち直り、それでも「西」(=新しい場所・時代)に向かって生きていく決意を新たにするところで終わります。
人生の大きな岐路にいつも立ちはだかる永遠の問い「Stay or Go?」。
重要なのはどちらが正しいのかではなく、決断を下すこと自体なのでしょう。
なぜならこの物語でも、そのほかの多くの場合でも、「STAY」という決断はすなわち新しい「GO」でもあるからです。
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