2011年11月24日木曜日

十一月賛歌

11月24日(木)


庭のもみじが今見頃を迎えています。
これは鴨亭玄関の正面、駐車場の真中にあるもみじです。
玄関から十メートルほど内側の廊下に立つと、フローリングの床に映り込んだ「逆さもみじ」を見ることができます。
夕方にはライトアップをしていますが、なかなかきれいです。


さて、十一月となると,にわかに日が短くなり、木枯らしも吹き始め、初霜の便りもあちこちから聞こえてきます。近づいてくる冬の足音にちょっと憂鬱になったりもしますが、私にとってはそれだけでもないのです。

息子の誕生月ということはとりあえず置いておいても、まずいちばんは、今年の六月に作った梅酒と梅ジュースが解禁になるということ。(琥珀色)
それから、七五三で子どもの盛装姿が見られることも楽しみの一つです。(錦)
ちなみに鴨などのジビエも、冬を前にたっぷりと脂肪をつけておいしくなります。(?)
そして紅葉。(赤・黄色)

自然から「冬」といういちばん厳しい季節の洗礼を受ける前の、つかの間の様々な彩りが、十一月にはありますよね。


話は変わりますが、「永遠のゼロ」ですっかりファンになってしまった百田尚樹さんの「輝く夜」という短編集を買いました。
まだ途中ですが、日本版のO・ヘンリーという感じがしました。
百田さんは、「社会や人間のおぞましさは現実に溢れかえっているからわざわざフィクションで扱う理由がない」とおっしゃっています。
百田さんの信念、「小説は読者に生きる勇気・生きる喜びを与えるものでなければならない」という姿勢を私は心から支持します。
私たちが作っていくお店も、かっこよく言えば、百田さんの作品みたいなお店を理想としています。この理想に、少しでも近づけるように、努力していかなければと思っています。












2011年11月12日土曜日

秋の庭にて

11月12日(土)

まずは、朝日が高く昇ってきたころの雲の様子です。画面下のほうのすじ雲がきれいだったのですが、あまり鮮明ではありませんね。

二枚目の写真は、同じ時刻の、雲に取り巻かれた筑波山です。

 




 さて、庭には椿が咲き始めています。
季節がさらに進んだなという感じがします。
椿は寒い時期の日本の花の代表格ですが、この花が咲いている風情を見て、私がいつも思い出すのは、「不思議の国のアリス」で出てくるバラの花です。
トランプの兵隊たちが、白いバラの花を、女王様の命令で用意するはずだった紅バラに似せるため、大急ぎでペンキで赤に染め替えているシーンのあのバラの木によく似ているのです。
赤椿が今日は一輪しか咲いていなかったのと、背景に写りこんでいる桜の木などで、あまり感じが出ていませんか?



 菊の花は、まさに満開の時を迎えています。
庭に咲いている限り、その色とりどりの花々はとても美しいのですが、いざ花びんに挿そうと思うとそれほどた易くはいきません。
花屋さんで売られている菊は、さすがプロの商品だけあってみんな茎がまっすぐなのですが、庭の花は違うのです。
紐で縛ったり、添え木を当てたりといった義母の必死の努力にも関わらず、ひねこび放題。
さらに、どのようにひん曲がった茎でも花は真上を向いて咲きますから、斜めだった茎に咲いた花は、立ててあしらおうとすると俯いてしまいます。
花自体はとてもきれいでも、どうやってみても使いこなせない花がたくさんあります。
むしろ、活けたとき花びんと調和して映える花を探すのが難しいぐらいです。

このような時、いつも
「これって人間と同じだなあ。」
と思います。
素直でまっすぐに育った人間なら、どんな場所でもすんなりと周りと調和してやっていけますが、くせのある人間は、配置や使い道が難しい。
中にはどうにか居場所を見つけてそれなりにやっていける人間もいるでしょうが、どうにも溶け込めなくて、その結果あちこちを転々とするような生き方をせざるを得ないような人もいると思います。

少し前ほどには「個性の尊重」ということは言われなくなりましたが、当たり前といえば当たり前です。「個性の確立」より前にまずすべきは、素直な心の育成でしょう。まっすぐに伸びた茎の先にこそ、個性豊かな美しい花が咲くのだと思います。
















2011年11月6日日曜日

カマキリにあやまった息子

11月6日(日)


時は移り、早くも11月。
この季節には珍しい暖かい日が続いています。

毎朝あちこちでカマキリが産卵しているのを見かけます。

数日前、ベランダ側の窓の網戸の隅に産卵しかけてやめたみたいなカマキリが一匹張り付いていました。
きっと産み始めたとき、何か邪魔が入ってやめてしまったのでしょう。

一部だけ産み付けられた卵はどうなるのでしょう。春になって何匹かは這い出してくるのでしょうか。
出産という、女の一世一代の大仕事を中断させられてしまったカマキリは、まだ次の機会をもてるのでしょうか?
同じ女として、このカマキリに深い同情を覚えました。

そのとき娘が私に教えてくれました。
そのカマキリに息子が謝っていたというのです。
何も知らずに窓を開けてしまった息子は、そこに産卵中の彼女を発見。
でも気づいたときにはもう遅く、危険を感じた彼女は卵を産むのをやめてしまったらしいのです。

後ほど私が見つけたときも、ほとんどその場所を動いてはいなかったものの、もう産卵の続きを始める意志はなかったようです。

そしてその日の夕方には、途中まで産み付けられた卵はそのままに、彼女は姿を消していました。

産卵という仕事を成し遂げられないまま一生を終わってしまうかもしれない彼女のことを思うと、胸がちくちく痛みはしたものの、彼女に謝っていたという息子の感性に、少しほっとした私でした。