8月5日(金)
関東平野の中でも茨城は土地の起伏が乏しい。
ここら辺でも、筑波山とそれに連なる低めの山並みから見る角度を少しでもずらせると、見晴るかす広い空である。その空のキャンバスに、今日のような天気の日には、豪快な雲の芸術が描かれる。
力強い夏雲の競演である。
青々とした田んぼの中を通る長い一本道の農道を車で通りながら、時としてそのまま空に吸い込まれてしまうような感覚を持った。
このような感覚、都会では味わうことはできないだろう。
まだ美しい自然がたくさん残る田舎の人は、それを宝だと思い、心の原風景として大切にし、自分がそこに居続ける理由とするのかもしれない。
「ただ・・・」と私は思った。
この景色が美しく、深く、貴重なものであることは否定できないが、ほかのところにも、これと同じぐらい、あるいはこれ以上に美しく、深く、貴重なものは無数にあるに違いない。
住み続ける人に対して、旅人とは、その無数を可能な限り求める者である。
住み続ける人は同一の場で縦に(時間軸に従って)ものを見る人で、旅する人は場所を移動する代わり、ひとつの場所に留まるのは瞬時である。
その両方の人になるのは、不可能である。
適当に折り合いをつけて、時によってどちらかになったり、どちらか一方にこだわったりするだけである。
そこからまた、私の思考は違う枝のほうへ移動していく。
今度は子供の教育についてである。
私は母となり、二人の子供を育ててきた。
お腹にいるときから現在まで、縦の時間で成長を見守ってきた。
それに対して、たとえば中学校の先生は、いろいろな子供のある一定の期間(13歳~15歳)をずっと見ていく職業だ。それぞれの子供のある決まった成長段階にのみ、手を貸していく。
そして短い期間それをやり、送り出し、次の子供たちに関わっていく。
この図式も、住み続ける人と旅する人のそれととてもよく似ている。
それぞれにはそれぞれの味わいがある(だろう、きっと)。
縦と横の視点。空からはじまり、すみか、そして子育てと、とても興味深い展開でした。芭蕉の「旅をすみかとす」を思い出しました。瞬時に見るからこそ、視点が常時見ている人とは違う。でも旅人には暖かくむかえてくれる宿が要る。
返信削除親と教師の子どもへのかかわり方。それも織物の縦糸と横糸のように、なくてはならないものでしょう。