2011年10月1日土曜日

忘れないことと忘れること

10月1日(土)-2

「忘れる」という言葉が私の頭にひっかっかったのは、「忘れてはいけない」という趣旨の文章と「忘れなくてはいけない」という趣旨の文章とを偶然同じ日に読んだからです。

前者は朝日新聞の「南相馬日記」ー 消えた命 忘れはしない - (9月29日付け)。
毎日海辺に通い続け、津波でさらわれた父親と幼い長男を、探している男性の記事です。
南相馬市において、津波による死者と不明者は663人にも及びます。にもかかわらず、震災の直後に起こった原発事故にばかりに目が向けられ、津波の犠牲者が置き去りにされている現状を告発している記事です。
男性は愛する家族を「決して置き去りにはしない」と胸に刻み、今日も捜索を続けているそうです。

そして後者は新約聖書「コリントの信徒への手紙」にある「愛の定義」。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
という、有名な個所です。
この定義を曽野綾子さんが本の中で解説されていましたが、「恨みを抱かない。」という文の説明で、「抱く」という語のギリシャ語の原語は会計係が忘れないために記帳するという意味の動詞だそうです。つまり、キリスト教の愛の定義では、忘れないことがよいのではなく、忘れなければいけない場合があるというのです。
ですからこの場合の「忘れる」は、「許す」ことと同じで、キリスト教信仰の基本原則となっています。
しかし、いくら信仰の原則が「許し」であっても、クリスチャンがみな原則どおりに「許す」ことができているかというと、そうではないと曽野さんは続けます。そして、人間性に厚みをつけるためには、あるがままの自分とあるべき自分との二重性を子どものうちから理解させなくてはいけないとおっしゃっています。いい年をして、子どものように幼稚で薄っぺらい見方しかできない大人が認められるような社会は、世界の中にほとんどないからというわけです。

厳しいご指摘ですね。


両方の文章を読んで、、私たちが生きていくうえで、「忘れてはいけないこと」がある一方、「忘れなければいけないこと」もあるということにあらためて気を留めることになりました。
そして私たちはしばしば、忘れてはいけないことを忘れ、忘れなければいけないことを忘れず、そのために重荷を背負って生きているような気分になることに思い当たりました。


糧になることは忘れず、重荷になることは忘れて生きていけるように、これから先、注意深く心を使いながら生活していこうと思います。

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